明治から大正にかけて最盛期を迎えた亀田縞
東京駅より新幹線で約2時間。越後・新潟の亀田地区。
この地に、伝統の「亀田縞」を復元している機屋(はたや)がある。
最盛期には日本最北の綿産地であり、660の業者によって「亀田縞」が生産されていたという。
その機屋も、今や2社を残すのみとなった。
木綿織物 「亀田縞」の起源は
享保年間とも寛政年間ともいわれるが、定かではない。
亀田地区の歴史年表によると、元禄九年(1696年)の頃に「この頃、木綿縞(のちの亀田縞)が生産開始」とある。これに従うと310年の歴史ということになる。
当初は、亀田卿の農民たちが水と泥に強い綿織物を求めて自作していた機能的な織物。
その機能に加えて独自の縞模様が評判となった。
明治に入ると農家の副業では納まらず、織物業として工場生産に変わり機屋(はたや)が増加し、地元亀田の問屋によって東北、北海道へと販売された。
こうして
「亀田縞」は織物職人の手によって全国的に広がっていった。
足踏機の採用、染色技術の改良、同業組合の設立によって、産業基盤が確立され
大正期にかけて亀田縞生産の全盛期を迎えた。
紺縞、白縞が生産の中心であったが、染色の改良で鮮やかな縞も表現できた。
しかし200年余り続いた亀田縞もやがて終息を迎える。
時代の移り変わりとともに昭和13年から戦時指定生産が開始。
その後 大量生産の時代がはじまり、亀田縞は
あえなく歴史の幕を閉じる事となった。
そして今、亀田に残る2人の職人が亀田縞の伝統を後世に伝える。
 
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